MATSUYA-GINZA with TOBEYAKI 窯元に聞く 過去、現在、未来の砥部焼

なつかしくてちょっとあたらしい、
日々に寄り添う砥部焼の魅力

第40回砥部焼展に出展する窯元のなかから、戦後の砥部焼を牽引した「梅山窯」、梅山窯で学び、独自の作風を追求する2つの窯元「中田窯」と「山中窯」、これからの砥部焼を担う「雲石窯」「すこし屋」「皐月窯」「陶房遊」、彼らを土の面から支える「伊予鉱業所」、そして、一番の応援団長の砥部町の佐川町長(2025/1月現在)を訪問して、過去から現在、未来の砥部焼についてお話をうかがいました。
※このコラムは、第40回の催しに松屋銀座のサイトで掲載されたコラムのアーカイブです。

梅山窯〜戦後の砥部焼を牽引

1882(明治15)年、梅野政五郎により開窯された梅山窯(梅野精陶所)は、砥部に現存するなかで最古の窯元です。規模も最大で、砥部焼では梅山窯を除く窯元を「小窯」と呼びます。梅山窯を訪れれば、資料館では歴史を学べますし、工場では砥部焼のほぼすべての製法を見学できますし、売店ではいわゆる砥部焼らしい食器を購入できます。

今回、資料館と工場をご案内いただきましたので、砥部焼の歴史と、梅山窯の器が生まれる工程をレポートしたいと思います。

梅山窯:外観
外観

砥部焼、梅山窯の歴史

まずは、資料館から。

梅山窯:資料館
資料館

「こちらは古陶の資料館で、戦前のものを並べています。砥部焼の歴史は古く、豊臣秀吉の朝鮮出兵(1592〜1598年)の際に朝鮮から連れ帰った陶工によって始められました。そのときは陶器でした」

館内では、18世紀の陶片を見ることができます。

その後、1777(安永6)年、大州藩主第9代・加藤泰候の時代、藩の財政を立て直すために、伊予砥の生産の際に出る砥石屑を利用した磁器の製作を命じました。その任に当たった杉野丈助は上原窯を築き、磁器の焼成に成功したことで、今日まで続く磁器の産地としての砥部焼が始まるのです。

「明治に入ると、今の砥部焼からは想像もできない、有田焼や九谷焼などを意識したものもつくられます。オリジナリティがなくて、いいとは思いませんが……。明治の後半になると、淡い黄色の磁器『淡黄磁』がつくられ、1893(明治26)年のシカゴ万博で一等賞を取り、世界的に有名になりました。審査員の方が、『これは象牙でつくったのか? 焼きものはこんなに白くできるものなのか?』と驚き、高く評価され、ありがたいことに注文が来るようになりました」

梅山窯:淡黄磁
淡黄磁

土や釉薬などの原料、焼成の仕方など、さまざまな条件が重なり、とろんとした象牙色の磁器は生まれたとのこと。原料も製法も異なる現代において、一筋縄ではいかないそうですが、今、梅山窯では淡黄磁の再現に取り組んでいるそうです。

1878(明治11)年、砥部に型絵の技法が伝わると、明治の後半から大正にかけて大量生産が可能になり、「伊予ボール」を中心に、東南アジア、中国などに輸出されるようになりました。

「大正に入って、梅山窯にも注文がどんどん来るようになりまして。型紙を重ねて刷毛で塗る型絵絵付けの技法が用いられました。ただ、やっぱり手描きと比べると、無機質というか、動きがない。だから、今はやっていません。最近は型紙どころか、シール転写の安価な食器も多いですが、筆で描く良さをわかってくれているお客様のために、手づくり、手描きの食器を届けること。これが私たちのポリシーです」

戦後の梅山窯

隣の建物へ移動。

こちらには、戦後の梅山窯の食器が展示されています。梅山窯が、戦後の砥部焼を牽引するようになった大きな理由に、先代の梅野武之助の存在がありました。

「シンガポールから復員後、武之助は東京にいました。砥部に戻って何をしようかと考えていたとき、駒場の日本民藝館に柳宗悦を訪ねました。たいへんかわいがっていただいたそうで、こんな田舎の砥部にも来てくれました。柳だけでなく、バーナード・リーチ、濱田庄司、富本憲吉、鈴木繁男らも来て、いろんなことを教えていただきました」

特に鈴木の役割は大きく、梅山窯のためになずなや呉須太陽などの模様、赤絵などを考案。それらは今も受け継がれ、梅山窯の定番として販売されています。

「武之助が民藝の先生たちに、どうやったら生きていけますかね、と尋ねると、手づくり、手描きがいい、と勧められました。でも、戦争で亡くなるなどして、陶工の数が少なかった。そこで、誰もが描きやすいように、一筆書きの絵柄になったのです。今では、梅山様式とも呼ばれる独自の技法となりました。昭和30年代後半の話です。試作をつくっては、武之助は寝台列車に乗って、東京まで見せに行っていたそうですよ」

梅山窯:鈴木繁男の作品
鈴木繁男の作品

柳らと交流していた頃、砥部に移住して梅山窯で働き始めたのが、工藤省治でした。おそらく、かたわらで絵付けを指導する様子を見ていたことでしょう。しかし、工藤はオリジナルのデザインにこだわり、1972年、今日まで続く砥部の代名詞ともいえる「唐草模様」を創出しました。これを機に、梅山窯の本流は、民藝からクラフトへ移行していきました。

梅山窯:工藤省治が考案した唐草模様
工藤省治が考案した唐草模様
工藤省治についてはこちらの座談会でも語られております

梅山窯が大切にしていることについてお聞きしました。

「飽きずに美しいもの、使い勝手がいいものを求めています。お客様の要望を聞いて、新しい商品が生まれることもありますよ。切立丸皿は普通の丸皿でもいいんですが、汁物も入れられるように、という声から生まれました」

梅山窯の工場を見学

いよいよ資料館の向かいにある工場へ。
入口には、原料の石が置かれています。これを細かく砕き、粘土にします。

梅山窯:砥部町で採掘された陶石
砥部町で採掘された陶石

中へ入ると、ろくろの回転する音が聞こえてきます。梅山窯では、丸いものを成形するのに「ろくろ」、四角いものは「たたらづくり」、大量の注文や極小のもの、複雑な形状のものは「鋳込み」というふうに製法を変えます。ろくろはさらに、数などに応じて、機械ろくろと手ろくろを使い分けています。

梅山窯:機械ろくろ
機械ろくろ
梅山窯:手ろくろ
手ろくろ
梅山窯:たたらづくり
たたらづくり

成形、手作業による仕上げ、乾燥が終わると、素焼き専用の窯で素焼きを行います。焼き上がるとほんのりピンク色になります。

素焼きを終えた器は、絵付け師が待つ2階の部屋へ。
まずは下絵。呉須という濃い青色の顔料を使い、つけたての一筆書き(梅山様式)で描かれます。

梅山窯:下絵付け
下絵付け

下絵が終わると、1階で釉薬をかけます。

梅山窯:釉薬かけ
釉薬かけ

次に、約1230℃で本焼きを行います。

梅山窯:本焼き
本焼き

呉須のみの絵付けの場合はこちらで終了。赤、黄、緑などの色絵が入る場合は、再び2階で上絵付けを行います。
上絵付けを施したものは、約780℃の上絵窯で焼成を行い、完成。

梅山窯:上絵窯で焼成
上絵窯で焼成

町指定文化財「梅山大登り窯」

最後に、今は使われていない登り窯を見せていただきました。

こちらの登り窯は、1887(明治20)年に築窯されました。現在は6室が残っていますが、もともとは9室あったそうです。
内部は、大人が立てるほどで、その大きさに驚かされます。

梅山窯:登り窯外観
登り窯外観
梅山窯:登り窯内部
登り窯内部

梅山窯

愛媛県伊予郡砥部町大南1441

https://baizangama.jp

中田窯〜梅山窯に学び、自らも後進を育成

中田窯を主宰する中田正隆さんは、現在の砥部焼でもっとも人気のある作り手の一人です。1946年、砥部町に生まれ、18歳のとき、梅野精陶所(梅山窯)に入られました。まずは、梅山窯の時代の話からお聞きしました。

中田窯
中田正隆さん。窓からの緑が映える絵付け場で、ご自身の仕事についていろいろとお話しいただきました

「梅野で勉強した仲間で、現役でやっているのは、山中くんを含めて3人くらいかな。僕が入った頃、民藝の鈴木繁男さんが来られるようになってから7、8年ほど経っていたと思います。鈴木さんは、絵付け場のほうで仕事をされていて、僕や山中くんはつくるほうだったから、あまり接点はなかったんですよ。ただ、砥部に滞在中は旅館に泊まっていたので、仕事が終わってから夜に話を聞きに行きました。バーナード・リーチとか、富本憲吉さん、濱田庄司さんなどの話を聞かせてもらいました」

1974年に中田さんが独立してからも、鈴木は中田窯を訪ねては、アドバイスをしてくれるなど、優しい人だったそうです。中田さんが、「鈴木さん」と呼ぶのも、「先生と呼ばないで」と言ったからだとか。鈴木の人柄がうかがえます。

中田さんは梅山窯を辞めて、すぐに独立したわけではありません。1969年から1年間、技術院名古屋工業技術試験場で釉薬の研究に明け暮れました。

そして、1971年から2年間、今度は青年海外協力隊の隊員として、インドのビハール州の工業試験所に赴き、焼きものの製作指導に従事しました。

「試験所には、織物、竹細工、金工などもありましたね。窯では、低火度で原始的というか、ちょっとだけ釉薬のかかった幼稚な焼きものをつくっていました。毎日、試験所に行かないといけないし、旅行してまわるという立場じゃないですから、周辺の窯でつくられている素焼きのコップや水瓶などを見たくらいで、特に何かを学んだということはなかったですね」

インドでの生活を振り返っていただいたところ、強烈に覚えているのが、食事にまつわることでした。

「貧富の差がけっこうあって、僕らはどちらかといえば、貧しい層に入ってやるわけだから、彼らの食生活を見たときはびっくりしました。食事の内容は、玉ねぎが1個と、バナナの葉に小麦粉のような粉をのせて、水と岩塩を足して練ったもの。これだけ食生活を落としても生きていけるんやったら、日本に帰って独立しても、死ぬことはないなと思いましたね(笑)」

そして、帰国後に独立しますが、当初は鈴木をはじめとする、民藝の焼きものからの影響が大きかったそうです。次第に、その鈴木たちが参考にしていた初期伊万里や朝鮮の焼きものに目を向けていきました。

「独立した頃、梅山窯には、鈴木さんらを中心とする民藝と、唐草をデザインした工藤さんのクラフトという2つの方向性がありました。僕は、初期伊万里とかの古い焼きものが好きだったから、なんとなく民藝のほうに進んだ感じです。独立してから、そういうものを参考にして、本格的に絵付けを勉強していきました。それが何十年も積み重なっていくと、初期伊万里のような雰囲気を残した自分らしいものができ始めました」

最初のうちは、日本の焼きものばかりを見ていましたが、美術館に通ったりしているうちに、ペルシャあたりやベトナム、ウクライナ、ウズベキスタン、タジキスタンなど、自分の好きな焼きものがいっぱい出てきたと言います。

「日本の古い焼きものが土台となり、中近東やベトナムなどがミックスされて、国籍不明みたいなものが自然とできあがっていきました。個人的に、現代の有田焼や九谷焼などの精緻なものよりも、焼きものが生まれたばかりというか、完成されていない、技術的に未熟なものに惹かれますね」

そうしたなか、中田さんがこだわるのが、釉裏紅です。陶磁器の装飾技法の一つで、下絵付けに呉須の代わりに酸化銅を用い、その上から釉薬をかけ、還元焼成して、赤く発色させます。ちなみに、釉裏紅は中国の言葉で、日本では辰砂と呼ばれることもあるそう。

「釉裏紅は暗いピンク色になりやすいんですよ。それを真っ赤にするのが非常に難しい。上絵で赤色を描くだけなら簡単ですが、釉裏紅は下絵として赤色を描くので、食洗機で洗ったりしても模様がなくなりません。僕は、技術院名古屋工業技術試験場で釉薬の勉強を始めて、コツコツと研究を重ね、ようやく50代後半で安定して赤色を出せるようになりました。しばらくは、その赤色だけで模様をやりよったけど、これに上絵で緑や黄色をつけたらどうだろう、と思って。僕は、釉裏紅加彩と呼んでいますが、そんな焼きものをやっている人はいないですよ」

中田窯

これまでに研究を重ねてきた釉薬のサンプルの数々。絵の具や釉薬の種類や濃さ、還元焼成の際の二酸化炭素の濃度、窯の温度や、窯のなかの位置など、何百、何千の組み合わせのなかから、理想の色を見い出していくのです

中田窯

本焼きして、釉裏紅(赤色)を発色させ、さらに、彩りを重ねていきます。中田さんは、釉裏紅加彩と呼んでいますが、他にこの技法をしている人は知らないと言います。見本などはなく、ぶっつけ本番で描き足していきます

釉裏紅の上に彩りを加える、釉裏紅加彩を編み出すなど、歳を重ねてもますます意欲的な中田さんに、これからの砥部焼について聞いてみました。

「梅山窯には、唐草とか菊絵とか、工藤さんが遺した強烈な模様があるけど、そういうところから離れた自分の得意な分野というか、独自の焼きものをやっている人が増えていますね。若い人たちが、今までの砥部焼とは雰囲気が違うものをつくって、それらのうちのいくつかが残って、新しい伝統になっていくんじゃないかな」

産業革命からアーツ・アンド・クラフツ運動、アール・ヌーヴォー、モダニズムといったように、世界のデザインの様式は変遷してきました。同様に、砥部焼も変革のときを迎えているのでしょうか。

「普通のことやと思いますよ。江戸から明治、大正、昭和、そして戦後になって民藝の人たちの指導を受け、工藤さんを中心としたクラフトの時代があって、というふうに砥部焼も移り変わってきました。梅山様式といえる時期も、戦後のことですからね。砥部焼も新しい章に入っていくのではないでしょうか」

様式やつくられるものは変わっても、ものづくりの精神や技術は、梅山窯から中田さん、中田さんのところで学んだ息子の太郎さんや、陶房遊の松田啓司さんというふうに、継承されています。

中田窯

愛媛県伊予郡砥部町総津159-2

http://www.nakatagama.com

山中窯〜日々の暮らしにモチーフを見出し、自然体で作陶

中田窯の中田正隆さんと同じく、梅山窯で焼きものの仕事を始めたのが、山中窯の山中拓実さんです。分業制の梅山窯ではろくろの仕事に従事し、独立してからはもう50年ほどが経ちました。まずは、梅山窯に行かれたきっかけから、思い出、学ばれたことなどについてお聞きしました。

山中窯
山中拓実さん。成形は手ろくろで行います

「高校のときに、アルバイトで梅野(精陶所)さんに行っていて、こういう仕事があるんだな、と感じたことがきっかけ。僕は砥部の出身ですが、地元の若い人は少なかった。のんびりした田舎のいい雰囲気の工場でした。一番多いときは130人くらいおったらしいけど、僕らのときでも100人近くおったかな。学んだことといえば、ろくろの技術はそうですが、工藤省治さんとか、澤田犉さんとか、砥部の外から来ていた人が多くいて、そういう人たちからの影響が僕は大きかったような気がします」

多くの学びがあった梅山窯から、なぜ独立しようと思ったのでしょうか。

「僕らが独立した当時は、コンパクトな窯とかが出てきて個人でも設備を揃えやすく、わりと仕事もあったし、独立するっていう風潮みたいなものがあったかな」

絵付けについては、独立後、技法を身につけられたそうですが、たとえば、呉須を見ても、梅山窯のものがくっきりしているのに対して、山中さんのものは枯れたような風合いです。

「砥部の伝統は何ですか、と聞かれて、ぱっと答えられる人っていない。土くらいじゃないかな。有田や九谷は白さを追求したけど、砥部は荒土っていうか、少し鉄粉を含んだ灰色っぽい感じ。そして、釉薬に土灰を混ぜて古伊万里のような雰囲気を出しています。それと砥部の土は少し弱いから、焼いたときにひずんだりしやすい。だから、厚めにつくられた。重たくて、ぽってりとしたかたちというのも理由があるんですよ」

日々、作陶に向き合うなかで、心がけていることなどを尋ねると、何も考えていないよ、と言わんばかりに笑いながら、答えてくれました。

「ひらめきみたいなもんがあると思うんですよ。でも、それは日々の過ごし方が大切で、焼きものだけをやっていればいいわけじゃないんですよ。いろんなものを見たり、聞いたりするなかで、ひらめきみたいなものが出てくるんじゃないかな、という気がします」

山中さんの趣味は鮎釣り。また、コーヒーも好きで、ご自身で焙煎もされるのだとか。竿を手に、木々のゆらめきや川のせせらぎのなかに身を置いたり、コーヒーの時間を楽しんだりするなかで、多くのひらめきを貯えていくのでしょう。

工房を見渡すと、食器のほかに、花瓶や掛け時計、ランプシェード、マスクまで、所狭しと山中さんの作品が並んでいます。その多才ぶりがうかがえます。

山中窯
壁にかかるユニークな作品

「何かひらめいたとき、感じたときに、かたちにしておかないと忘れてしまうでしょう。スケッチみたいなものです。時間が経てば、感じ方も変わってくるから、思いついた瞬間にかたちにしておくことを心がけていますね」

最後の質問として、山中さんがつくるもののなかで、何がよく売れるのか聞いてみました。その答えは、実に自然体で、ベテランの風格すら感じられました。

「よくわからない(笑)。でも、つくる人がおったら、買う人がおるって言いますから」

山中窯

愛媛県伊予郡砥部町北川毛565

雲石窯〜ベテランと若手をつなぐキーパーソン

雲石窯は、1916(大正5)年の創業。現在、4代目の山田雅之さんが窯主を務めています。山田さんは砥部町で生まれ、高校を卒業後は京都の嵯峨美術短期大学で陶芸の基礎を学びました。父親の存在や、まわりに焼きものの関係者が多かったこともあり、自身も自然と焼きものの道を歩み始めました。短大を卒業後、雲石窯に入りますが、当初から父親とは異なるものをつくっていたそうです。

雲石窯
雲石窯の4代目、山田雅之さん

「父はおもに花瓶をつくっていました。昔は女性がお嫁に行くときに嫁入り道具として花瓶を持参したり、華道の免許を取ったりすることが一般的で、練習用の花瓶がものすごく出ていたんです。でも、自分は壺のような大きいもの、日用食器などをつくっていました」

1964年生まれの山田さんは、梅山窯で学んだ中田正隆さんたち、そして、その中田さんから学んだ陶房遊の松田啓司さんたちのちょうど中間の世代にあたります。中田さんらの世代であれば、鈴木繁男らの民藝や工藤省治のクラフトなど、指標となるものがありましたが、山田さんの創作に刺激を与えたものには何があったのでしょうか。

「『愛媛の陶芸展』っていうのがあったんですよ。最近、40回を区切りにして終わったんですけど。愛媛県内で焼きものを生業にしている工藤(省治)さんや酒井(芳人)さんら、また、県外からも走泥社の鈴木治さんとか、重要無形文化財の先生らが関わって、審査や講評などを通じて、創作の重要性について教わりました。また、砥部焼の伝統として、手づくり、手描きを大切にしよう、というのは根っこにあるので、それらを同時に引き継いでいるという感じです」

たしかに、山田さんの器を拝見すると、砥部焼の伝統の呉須をベースにしながら、豆絞りや線模様、植物や花などモチーフが自由で、どことなく北欧らしさも感じられます。これらのデザイン、絵付けについては、妻の中元ひろみさんがおもに担当されています。

「一筆で描く、『つけたて』という技法で描いています。これは梅山窯が得意としているので、砥部焼としての印象も強いですよね。だから、そのまま引き継いでしまったら真似になってしまうので、絵柄をシンプルにしたりとか、呉須の色を変えてみたりとか、工夫しています」

砥部焼は3年後の2027年、磁器の焼成の成功から250年の節目を迎えます。将来、砥部焼はどういうふうに変わっていくのか、あるいは何を守り続けるのか、ご意見をうかがいました。

「手づくり、手描きを守っていくことは、これは基本としてみんなが持っておかないといけないと思いますが、守っていこうとするだけだと、きっと守れないんですよ。たとえば、京都の町並みを保存するために、変わらないようにするために、変えなければいけないこともある。砥部もそういうところが大事な気がしていて、いろんなことに挑戦することを否定してしまったら、将来はないんだと思うんですよ。思い切ってチャレンジする人がいれば、それはそれでいい。そこに大切な価値観や美学があったりしますから。今やれる範囲のことをやりながら繋いでいければ、というふうに思っています」

雲石窯
北欧のような雰囲気を感じさせる器も

「何かひらめいたとき、感じたときに、かたちにしておかないと忘れてしまうでしょう。スケッチみたいなものです。時間が経てば、感じ方も変わってくるから、思いついた瞬間にかたちにしておくことを心がけていますね」

最後の質問として、山中さんがつくるもののなかで、何がよく売れるのか聞いてみました。その答えは、実に自然体で、ベテランの風格すら感じられました。

「よくわからない(笑)。でも、つくる人がおったら、買う人がおるって言いますから」

雲石窯

愛媛県伊予郡砥部町大南935

http://unseki.com

すこし屋〜名工の血を受け継ぎつつ、砥部焼に新風を吹き込む

すこし屋の代表の松田歩さんの祖父、松田哲山(哲山窯)は砥部町無形文化財で、砥部町長の佐川秀紀さんも絶賛する名工です。弟子を取らない方針だったので、歩さんが直接手ほどきを受けることはありませんでしたが、祖父がつくる壺や花器を真似てつくったりしていたそうです。

歩さんは、1994年に高校を卒業後、砥部焼の緑光窯でろくろを、翌年、愛媛県立窯業試験場(現窯業技術センター)で窯業の基礎を、さらにその翌年、佐賀県立有田窯業大学校の絵付け科で下絵、上絵を学びました。その後は有田焼の窯元に入社し、おもに上絵付けを担当しました。1999年、砥部に戻り松田窯を開きます。妻の知美さんとは、砥部町が開催していた陶芸塾で出会い、2005年に結婚。それを機に、すこし屋を設立し、現在は妻、スタッフとともに、長く愛される器を目指して、作陶に取り組んでいます。

すこし屋の食器は、伝統的な砥部焼を比べると、新鮮な印象を受けます。その秘密はどこにあるのでしょうか。

「一般的な砥部焼の線が太いのに対し、すこし屋の絵柄は細い線が特徴ですが、これは有田の影響を受けていると思います。柄については、砥部焼の伝統といえば、工藤さんの唐草などですが、私たちは布や紙が好きなこともあり、着物の古典的な柄をモチーフにしています。さらに、マットな釉薬で仕上げているので、他とは違う雰囲気になるのかな」

すこし屋
すこし屋の器たち

そういう作風が異なる食器に対して、お客様から「これは砥部焼じゃない」と言われることもあったそうです。

「僕たちが始めた頃は、県内の消費がほとんどでした。同じことをしても意味がないので、僕らは積極的に県外の商談会に出て行ったりしました。そうして、東京や首都圏とかのお店に置いていただけるようになり、何とかやってこれました」

県外で受け入れられたことにより、30代から40代の女性という、これまでの砥部焼の顧客層から外れていた新たなファンを獲得することができました。

「なんかちょっとかわいいな、毎日使ってみたいな、砥部焼ってバラエティーがあるんだなって。そういう砥部焼の入口になればいいな、っていうくらいの気持ちでいます」

すこし屋
一点、一点、筆で模様を描いていきます

すこし屋

愛媛県伊予郡砥部町大南826

https://sukoshiya.com

皐月窯〜父親譲りの探究心で、創造の世界を広げる

中田太郎さん・千晴さんのご夫婦で作陶されている皐月窯。お二人は太郎さんの父である、正隆さんの中田窯に勤めたのち、2017年5月に独立。独立した月を含め、これまで“5”という数字と縁があったことから、皐月窯と名づけました。

「中田窯を継ぐことも考えたんですが、父が『もうあと2年』とか言いつつ、いつまでも元気で(笑)。自分たちの好きなものはつくれない、という環境だったんで、もう出たほうがいいかな、と。仲悪いとか、そういうことはないですよ」

中田窯にて学んだこと、作り手として尊敬していることなどについてお聞きしました。

「それはもうつくる姿勢というか。何か思いついたら、今度やろうではなくて、その日の夕方にはそのための道具をつくり始めたり……。とにかく研究熱心なんです。焼肉を食べにいく約束をしていても、そっちが優先されるという(笑)」

お二人は、当然、その影響を受けつつも、ことさら意識するわけでも、払拭するわけでもなく、砥部の土に向き合いながら仕事をしています。具体的には、白土、荒土、赤砥土、並土という鉄分の割合が違う土にあわせて作陶に励んでいます。釉薬に関しては、太郎さんがずっと研究していましたが、それだけでは限界を感じ、土からこだわり始めたそうです。

皐月窯の名の下、お二人の作風は異なりますが、それぞれ何からインスピレーションを得ているのでしょうか。

「僕は昔の焼きものが好きなので、それらを参考にすることが多いです。具体的には、初期伊万里や李朝が好きなんですけど、まだそれに見合う絵付けの力を持っていないので、今は自分のできる範囲で、ですけど」(太郎さん)
「私は海外の器とか、布とか。特にベトナムやエジブトのものが好きで、参考にしています」(千晴さん)

お二人の創造の世界は、砥部焼の伝統を飛び越えて、無限に広がっていくようです。そのなかでも、やはり足元の土だけは大事にしたいと考えています。

最後に、これからつくってみたいもの、やっていきたいことについてお尋ねしました。

「今、父(正隆さん)は、自分がつくりたいものと、お客様に買っていただけるものが合致しているんですよ。自分がつくって、いいと思ったものを、好きって言ってもらえるなんて、すごく幸せなことだと思います。私たちも自分の好きなものを精査して、技術も上げて、どんどん思いついたことをやって、今二人とも40代前半ですが、50代で花開きたいと思います」

役割分担としては、太郎さんが手ろくろによる成形、千晴さんがたたらなどによる成形を担当、絵付けはお互いが自由に、それが終わればどんどん窯を焚いていきます。

皐月窯
手ろくろで作業を行う中田太郎さん
皐月窯
絵付け中の中田千晴さん

皐月窯

愛媛県伊予郡砥部町川登43-1

https://www.instagram.com/satukigama/

陶房遊〜これからの砥部焼を担う若きリーダー

松田啓司さんは、1975年、愛媛県砥部町に生まれ、佐賀県有田窯業大学校を卒業後、砥部焼の窯元、中田窯での修行を経て、2003年に陶房遊を開窯しました。また、砥部焼協同組合理事長を務め、砥部焼全体の発展のためにも尽力されています。砥部焼全体の話については、座談会「砥部焼展40年~始まりの物語」をお読みいただくとして、こちらでは、一人の陶工として、陶房遊の窯主としての立場からお話をうかがいました。

砥部の町を観光しようとすると、梅山窯や砥部焼観光センター炎の里などを除くと、小規模な窯元が多く、一見さんが工房をのぞいたり、作り手から直に話を聞いたりするのは難しいと感じるかもしれません。でも、陶房遊は工房がガラス張りで見学ができ、さらに、ギャラリーとカフェが隣接しています。こちらのギャラリーとカフェは、妻の奈織子さんが代表を務めています。

「カフェをするのは、こういう使い方ができるんですよ、っていう提案をしたいからです。あと、カフェに着いたときも帰るときも、僕らがずっと同じ作業をしているのを見て、僕らが真剣にものづくりをしていることをわかってもらえたら嬉しいですね。砥部の他の職人たちのなかには、ものをつくる人間が何をやっているんだ、という人もいるかもしれませんが、僕はほんとうに、つくるものも、商売もなんでもありなんです(笑)」

こういう人が上にいると、若い作り手たちは、ほんとうにやりやすいだろうな、と思います。

「(中田窯の)中田(正隆)さんも、僕にはこうしろ、ああしろも言わなかった。僕も若い人には言わないですね。君は君だから、って言います。個性をつぶして、成功の芽を摘むようなことはしたくない。組合の理事長もそうだと思うんです。いろんな意見を聞いて、取りまとめるのが、僕の仕事だと思っています」

こういう話だけを取り上げると、今風で、PRが上手で、というふうに誤解されるかもしれません。ご本人も、「努力は好きじゃない」と言います。しかし、師匠の中田さんから、中田窯に勤めていたときの松田さんの人には見せない一面を教えてもらいました。

「うちの仕事を4時までやってもらって、そのあとはずっとろくろの練習をしよった。毎日ね、8、9時くらいまで。休みの日以外、休むことはないっていうくらい。それをずっと8年間。もともと勘もいいし、飲み込みも早いから、ろくろもずいぶん早くなった」

陶房遊の器は、砥部の雰囲気も保ちつつ、もう少しカラフルでポップだったりするのですが、それらの図案はどのように生まれてくるのでしょうか。

「古典的な柄を組み合わせて一つにしたらどうなるだろう、という単純な発想なんです。デザイン、絵付けについては、妻と一緒にしています。元のアイデアはどこから取ってきてもいいと思うし、砥部焼らしさも特に気にしていませんが、ただ、伝統の技法しか使わない、っていうのを縛りにしています。だから、写しのような仕事はしません」

陶房遊の器とは別に、松田啓司としてのブランドも製作しています。器の底の「MM」が目印です。

「コロナ禍が始まった年くらいかな。それまで言ったことなかったんだけど、『俺、したいことあるんよ』ってはじめて言って誕生したのが、錆青シリーズです。ベトナムの安南手を意識したのかと聞かれることがありますが、そうではなく、僕は最初、三彩がつくりたかった。そこから、ペルシャとかウズベキスタンとかの古い焼きものを取り入れて、今のようになったんです」

作り手として、これからの砥部焼を担うリーダーとして、松田さんの仕事にますます注目したいと思います。

陶房遊
錆青シリーズ

陶房遊

愛媛県伊予郡砥部町岩谷口237-3

https://toubouyuu.jp

伊予鉱業所〜陶石の採掘から、アイデアグッズの開発まで

砥部陶街道をそれて、狭く曲がりくねった山道を上ると、開けた場所に出ました。山肌には、白っぽい石が見えます。ここは、砥部焼の原料である陶石の採掘、販売を一手に担っている伊予鉱業所です。昭和48年の創業で、現在で3代目。若い奥元さんご夫婦が出迎えてくれました。

「砥部に外山という山がありまして、そこで砥石が取れて、四角く加工する際に出る屑を利用するために、砥部焼は生まれました。しかし、時代の様式の変化で砥石が売れなくなり、人造砥石に変わっていきました。だから今では、陶石としての採掘がメインになっています。砥部焼を中心に、有田焼や清水焼、瀬戸焼にも出荷しています」

採掘された陶石は、選別され、磁器土になるのですが、実際、磁器土にまでなるのは、1割に満たないそうです。その工程を見せていただきました。

伊予鉱業所

陶石を選別中。まず左側の男性が一級品を、次に右側の女性が二級品を選び出します。鉄分が少ない、白い石ほど等級が上がります。最後まで流れているのが、三級品以下の石です。瞬時に表裏を見て判断しなければならないので、集中力が要求されます。最後は社長が判断します

しかし、磁器の原料だけでは会社の経営は成り立たないとのことで、庭石や植木鉢、天然砥石の復活、さらに今後は、自らが窯元として器を製作するなど、仕事の幅を広げています。奥様のアイデアから生まれた「アロマストーン」は人気商品なのだとか。

伊予鉱業所

鉄分を多く含み、陶石としては使えない三級品以下の石を使って、天然砥石を復活させました

私たちに対しても、「おもしろいアイデアがあったら教えてください!」という、意欲的なお二人の活動から目が離せません。

伊予鉱業所

愛媛県伊予郡砥部町玉谷1685

https://iyokogyosho.com

砥部町長・佐川秀紀さんからのメッセージ

最後に、砥部町の出身で、砥部焼の応援団長、砥部町長の佐川秀紀さん(2025/1月現在)からメッセージをいただきました。

「砥部町は、みかんと砥部焼が二大産業ですね。砥部焼のいいところは、手づくりと手描きを崩さなかったところ。松田くんのような若い理事長がいて、女性の作家さんもいらっしゃるし、町でも陶芸塾を開催するなど、後進の育成にも力を入れているので廃れることはないでしょう。今は愛媛県内での消費が中心ですが、今後は販路拡大をしていけたら、と思っています。そういう意味では、松屋銀座さんでの砥部焼展は次で40回ですか。ほんとうにありがたいと思っています。私も毎回、砥部焼展におじゃましていますが、あるとき、お客様とこんなやりとりがありました。『この軽いのは、有田焼の真似をしているの? 私はぽってりとした砥部焼が好きなんですよ』と。きっとその作り手は、使い勝手を考えて軽くしたのでしょうけど、そこまで砥部焼を理解してくれているファンの方がいることが嬉しかったんです。2027年は、砥部焼が磁器を始めてから、250年の記念すべき年。私自身、子どもの頃から愛用している砥部焼が、さらに発展していくことを願っています」

砥部町の佐川秀紀町長
砥部町の佐川秀紀町長

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