TOBEYAKI’S HISTORY 砥部焼の歴史

~砥石のくずを原料に~
数え切れない試行錯誤の末に
生まれた砥部焼

古くからの焼き物の産地 砥部

砥部の盆地では、山裾の傾斜が窯の立地に適し、燃料となる豊富な木材がたやすく手に入ったため、古くより焼き物が焼かれていました。県立運動公園へ入る道の南北に残る大下田古墳(おおげたこふん)からは6-7世紀の須恵器の窯跡が、いくつも発見されています。
発見された須恵器の中でも「子持高杯」は7個の小さな蓋付杯が器台に載っており、当時の焼き物製造の技術の高さがうかがえます。子持高杯は、昭和43年に国指定文化財に指定され、国立歴史民族博物館に収蔵されています。

子持高杯

砥石の産地として名高かった砥部

砥石山

奈良・平安時代から、砥部・外山の砥石山から切り出される砥石は、「伊予砥」と呼ばれ、中央にもその名は知られていました。東大寺の「正倉院文書」には、観世菩薩像造立の料に、「伊予の砥」を用いたことが記されています。また、平安時代編纂の「延嘉式」にも伊予国産物として、「外山産砥石」を随用するとの記録が残されています。

砥石の「くず」が磁器になる

江戸時代、砥部は大洲藩に属しており、伊予砥の生産も盛んに行われていました。一方砥石の切出しの際に出る砥石屑の処理は大変な重労働でした。その作業には御替地(伊予市)の村人が動員されていましたが、その負担があまりに大きかったため、村人たちはその動員の免除を大洲藩に願い出ました(砥石屑捨夫事件)。

その頃、伊予砥の販売を一手に引き受けていた大阪の砥石問屋・和泉屋治兵衛は、天草の砥石が磁器の原料となることを知り、大洲藩に、伊予砥の屑石を使って磁器を生産することを進言しました。
これまで悩みの種で捨てていた砥石屑を原料にして焼き物ができる-この情報は当時の大洲藩にとって非常にありがたいものだったと言えます。
和泉屋からの進言を受け入れ、大洲藩の加藤泰候は、安永4年(1775年)に家臣加藤三郎兵衛に「磁器」生産の創業を命じました。
加藤三郎兵衛は、豪農の門田金治に資金を出させ、現場の監督者に組頭の杉野丈助を選びました。
そして、肥前の長与窯から5人の陶工を呼び寄せ、五本松の上原に、登り窯を築きました。

砥石

数え切れない試行錯誤

成功までの道のりは決して楽なものではありませんでした。
何回かの試焼を行い、本焼を行いましたが、地肌に大きなひびが入ってしまいます。何度繰り返しても同じでした。
肥前の陶工たちは愛想を尽かして、故郷に帰ってしまいました。残された丈助は一人本焼を続けましたが、最後には、赤松の薪もなくなり、半狂乱になった丈助は、家の柱や畳まで窯にくべたといいます。
その様子を見ていたのが、筑前の陶工信吉でした。信吉は、失敗の原因は釉薬原料の不良にあることを丈助に教えました。丈助は早速筑前に出かけ、新しい釉薬を探し求めました。
そして、2年半後の安永6年(1776年)についに白磁器の焼成に成功したのです。

~絶え間なく続く技術革新~
そして改めて見直される、
砥部焼の手作りの味わい

砥部焼の技術革新

白磁器焼成の成功の後も、絶え間なく技術が改良されてゆきます。
釉薬はこれまで筑前から取り寄せていましたが、杉野丈助は三秋(伊予市)で釉薬の原料石を発見しました。これまでのように、釉薬を遠方から取り寄せる必要がなくなり安定した釉薬の供給ができるようになりました。
また、文政元年(1818年)、五本松の向井源治は「川登陶石」を発見しました。これまでのやや灰色がかった磁器から、より白い磁器を作ることが可能になり、砥部焼の7割が海外に輸出されるようになり、販売が増えました。
また、亀屋倉蔵は、大洲藩の命により肥前で錦絵の技法を学びました。
このように、様々な点での砥部焼の技術革新が進められました。

川登陶石

世界に羽ばたく砥部焼

明治以降、砥部焼は中国等の外国に「伊予ボール」の名で輸出されるようになりました。
そして、向井和平が製作した「淡黄磁」が、明治26年にシカゴ博覧会で1等賞を受賞。砥部焼の名は世界に知られるようになり、大正に入ると、砥部焼の輸出比率が7割を超えるようになりました。

不況期そして再興

大正末期から昭和の初めの不況により、砥部焼の生産や販売は落ち込みました。一方で瀬戸や美濃といった先進地域では、石炭を使った倒焔式の窯や機械ロクロや石膏型、また絵付けでの毛筆から銅板印刷へと新しい技術が導入されていました。砥部はこのような近代化の波から、一見取り残されたかに見えました。
しかし戦後になり、砥部焼が持つ手作りの良さが改めて評価されることになります。
昭和28年、民芸運動の推進者柳宗悦、バーナード・リーチ、浜田庄司らが砥部を訪れ、機械化されている他の産地に比べ、手仕事の技術が残っていることを高く評価しました。
また、昭和31年には陶芸家の富本憲吉(文化勲章受賞)も訪れ、砥部焼の近代的デザインを後押しします。
それに刺激され、若手陶工を中心に手作りの良さを生かすべく、ロクロや絵付け等の技法向上に取り組みます。研究会を作ったり展示会を開いたりして、腕を磨きました。

現代の砥部焼

砥部焼は昭和51年に、陶磁器としては全国で6番目に、「伝統的工芸品産地」として指定されました。
伝統的な砥部焼の技法は、今も受け継がれていますが、最近では、女性や若手陶工の手による伝統的な技法にこだわらないモダンで新鮮な作品も多くなっています。
砥部焼の魅力としては何よりも手作りで使い勝手が良いこと、また値段が手ごろで厚手に仕上げられた堅牢性が日常使用に適していることがあげられます。
これからも砥部という地から、手作りの良さを受け継ぎ、窯元の個性を生かした、使う人のニーズに合った焼き物が次々と送り出されてゆくことでしょう。

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砥部焼年表

6~7世紀 このころ砥部で須恵器の生産が行われる。
大下田(おおげた)第1号/弟2号古墳
○「子持高杯」7個の小さな蓋付杯が器台に乗っている。
  ※国指定文化財(S43.3.15指定:国立歴史民族博物館収蔵
747
天平19年
『正倉院文書』に「伊予砥」が税として課徴されたことが記載。
927
延長5年
『延喜式』に「伊予砥」が税として課徴されたことが記載。
1775
安永4年
大洲藩主・加藤泰候が砥石のくずを使った磁器創業を加藤三郎兵衛光敏に命じる。
門田金治(麻生)に砥石のくずを使った陶器生産の創業を、杉野丈助(原町)に焼成の監督が任ぜられる。

杉野丈助、五本松に登窯を築く(上原窯)。

上原窯にて第1回磁器焼成するが失敗。そのため肥前から呼び寄せた5人の陶工は帰国。
1776
安永5年
第2回焼成失敗。

筑前・上須恵窯から砥部に移住していた信吉が、焼成失敗の原因は釉薬の不良であることを杉野丈助に告げる。
1777
安永6年
杉野丈助が筑前に行き、権助から釉石と釉薬を購入。

杉野丈助、新釉薬を使い磁器焼成に成功。(砥部焼のはじまり)

杉野丈助、三秋(現伊予市)で釉薬の原料石を発見。釉薬の自給が可能となる。

大洲藩が経営していた上原窯を門田金治が譲り受ける。
1818
文政元年
向井源治、川登陶石を発見。
1825
文政8年
亀屋庫蔵が大洲藩の命により、肥前から錦手磁器を伝習。
1839
天保10年
栄蔵、類助らが絵薬を求めて長崎にゆく。
1848
嘉永元年
井岡太蔵、トンバリ(レンガ)を使った窯を作る。
1851
嘉永4年
城戸源六、素焼窯を考案。

川登の坪内庄太郎が大洲藩の認可を得て、太鼓水車を使った陶石の粉砕業を始める。
1853
嘉永7年
坪内家の水車帳に17の窯元を記載。
1857
安政4年
瀬戸物役所、唐津役所できる。

このころ、全国に磁器窯が作られ、磁器が庶民生活の中に広まる。
1878
明治11年
伊藤五松斎、九州から陶工を招き型絵染付を広める。

伊達幸太郎、京都で西洋彩画を学ぶ。
1885
明治18年
砥部焼、清国(今の中国)に輸出。
1888
明治21年
「下浮穴・伊予両郡陶磁器同業組合」(現砥部焼協同組合の前身)を設立。
1890
明治23年
向井和平、淡黄磁を創始。
1893
明治26年
淡黄磁、シカゴ世界博で一等賞を受賞。
1903
明治36年
重要物産同業組合法が公布され、輸出に力を入れる為、「下浮穴・伊予両郡陶磁器同業組合」を「伊予陶磁器同業組合」に改組。
1906
明治39年
陶器補習学校できる。
1930
昭和5年
「砥部焼陶友会」発足。
1934
昭和9年
工業組合法の施工によって「伊予陶磁器同業組合」を「伊予陶磁器工業組合に」に改組、組合の地域を県全域に広め事業強化を行った。
1942
昭和17年
杉野丈助の功績をたたえて陶祖ヶ丘に記念碑を建立。
1944
昭和19年
商工組合の規定に従って、「伊予陶磁器工業組合」を「伊予陶磁器工業統制組合」に移行。
1947
昭和22年
商工協同組合法の公布に従って「伊予陶磁器工業統制組合」を「伊予陶磁器工業協同組合」に改組。
1949
昭和24年
中小企業協同組合法によって「伊予陶磁器工業協同組合」を「伊予陶磁器協同組合」に改組。
1953
昭和28年
柳宗悦、バーナード・リーチ、浜田庄司など、指導のため砥部を訪れる。
他産地に比べ、砥部焼には手仕事の技術が残っていることを高く評価。
1956
昭和31年
陶芸家・富本憲吉、陶芸指導のため砥部を訪れる。
砥部焼の近代的デザインを後押しする。
1959
昭和34年
「砥部焼陶友会」が解散。「砥部焼陶和会」設立。
1976
昭和51年
砥部焼、国の伝統的工芸品に指定される。
1977
昭和52年
砥部磁器業200年祭を行う。
1984
昭和59年
『砥部焼まつり』はじまる。
1989
平成元年
砥部焼伝統産業会館できる。
1995
平成7年
砥部焼の地球儀が国連欧州本部に設置される。
2003
平成15年
将来にわたり砥部焼業界を束ねていく為、「伊予陶磁器協同組合」を「砥部焼協同組合」に改名。

PROCESS 砥部焼の工程

1 陶石(とうせき)

砥部焼の主な原料は、上尾峠(うえびとうげ)産の粗面岩質安山岩(そめんがんしつあんざんがん)の陶石化したものです。

2 採石場(さいせきじょう)

かつては、町内の川登(かわのぼり)・万年(まんねん)・扇谷(おうぎだに)・弘法師(こうぼうし)・満穂(みつほ)・上尾(うえび)で砕石していましたが現在は上尾のみとなっています。

3 製土(せいど)工場

地元産の陶石に、他の産地の原料を混ぜ、坏土(はいど)(やきものの材料となる土)を作ります。

4 土練機(どれんき)

圧縮調整した坏土の空気を抜くため、真空土練機を使います。

5 ろくろ成型

指先の勘(かん)で、坏土を均一にしながら厚さを一定にする、熟練のいる仕事です。

6 削り仕上げ

成型後、生乾きの時に削ったりサンドペーパーで磨いて仕上げます。

7 乾燥

天日や余熱利用で乾燥させます。

8 素焼き

窯に入れ、900度から950度で、8時間から10時間かけて焼きます。

9 下絵付(したえつけ)

主に手描きで絵模様を付けます。

10 施釉(せゆう)

下絵付したものの上に釉薬(ゆうやく)を掛けます。

11 本焼き

施釉したものを1300度で15時間から24時間かけて焼きます。

12 上絵付け

本焼きした器の上に、上絵の具で絵付けをします。

13 完成

上絵の具で絵付けした器を、750度から800度で焼成します。

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