
MATSUYA-GINZA with TOBEYAKI 座談会「砥部焼展40年~始まりの物語」
「生活が育てた器たち」砥部焼。
生活文化を伝える松屋銀座とのこれから。
1985年から、愛媛県の民窯の砥部焼と、松屋銀座で始まった「砥部焼展」は、2025年で40回目を迎えます。そこで40回を記念して、第1回砥部焼展から現在まで関わる山田節子氏と佐藤裕見氏、現在、砥部焼協同組合理事長(2025/1月現在)を務める陶工の松田啓司氏をお招きして、座談会を催しました。
※このコラムは、第40回の催しに松屋銀座のサイトで掲載されたコラムのアーカイブです。
山田節子(中)
株式会社トゥイン代表。1966年、多摩美術大学卒業。1974年から現在まで、松屋銀座のコーディネーターとして、砥部焼展をはじめ、さまざまな企画に携わる。第1回から変わらない砥部焼展のテーマ“生活が育てた器たち”の考案者でもある
佐藤裕見(左)
Craft Planning代表。1971年、松屋グループの松屋商事に入社。1975年頃に工藤省治に会いに梅野精陶所(梅山窯)を訪問したことがきっかけで、1985年から始まった第1回砥部焼展に関わることに
松田啓司(右)
砥部焼協同組合理事長(2025/1月現在)。合同会社松田製陶所(陶房遊)。1975年、愛媛県砥部町に生まれる。佐賀県有田窯業大学校を卒業後、砥部焼の窯元、中田窯での修行を経て、2003年に陶房遊を開窯
座談会の内容に入る前に、砥部焼の歴史について簡単に振り返りたいと思います。
- ・慶長年間(1596〜1615年)…朝鮮から渡来した陶工によって日用雑器(陶器)の焼成が開始
- ・1777(安永6)年…大州藩主第9代・加藤泰候の時代、藩の財政を立て直すために、伊予砥の生産の際に出る砥石屑を利用した磁器の製作を命じ、その任に当たった杉野丈助が上原窯を築き、磁器の焼成に成功
- ・1878(明治11)年…五松斎窯の伊藤允譲が肥前の陶工より型絵の技法を修得。砥部では絵描きが不足していたこともあり急速に普及
- ・1882(明治15)年…梅野政五郎が梅野精陶所(梅山窯)を開窯
- ・1893(明治26)年…愛山窯の向井和平が開発した象牙色の「淡黄磁」が、アメリカ・シカゴ万博で一等賞を獲得
- ・1917(大正6)年…型絵の技法で製作された、東南アジア向けの「伊予ボール」を中心に、生産の80%を海外へ輸出
- ・1953(昭和28)年頃…国内向けの花器、置物などの製作がさかんに
- ・1950年代後半…民藝ブームの到来。民藝運動の指導者の柳宗悦をはじめ、濱田庄司、富本憲吉、鈴木繁男らが梅野精陶所(梅山窯)を訪れて指導
- ・1957(昭和32)年…工藤省治が梅野精陶所(梅山窯)に入所。1972(昭和47)年に生んだ「唐草模様」は砥部焼の代名詞に
そして、現在の砥部焼の特徴について、砥部焼協同組合理事長の松田啓司さんにお聞きしました。
「手づくり、手描きを大切にものづくりをしており、日常使いとして厚手でぽってりとした丈夫さと、あたたかみのある白磁、おおらかな染付が特徴です。また、家内制手工業で、分業ではなく、ほとんどの窯元で一貫製陶が行われており、個々の窯元による多様性も魅力です」
第1回砥部焼展の開催は、梅野精陶所(梅山窯)、そして工藤省治の存在なしではありえませんでした。
工藤省治、梅野精陶所との出会い
まずは、1970年代の砥部焼を取り巻く状況について、当時を思い出しながらお話しいただきました。
(佐藤)
僕は1971年に松屋商事に入社したんですけど、その頃、丸善で砥部焼を扱っていました。そこで茶碗を買って、のちに工藤省治さんに会いに行くことになるんだけど、その話の前に当時の状況を説明させてください。
「クラフト・センター・ジャパン」と「日本クラフトデザイン協会」という2つのクラフトに関連した組織があり、前者を丸善、後者を松屋が支援して、それぞれが売場を持っていました。ちょうど民藝ブームが下火になり、クラフトが注目され始めた頃、僕は「日本クラフト展」で工藤さんが出品された唐草模様の茶碗を見て、工藤さんに会いたくて、梅野精陶所と取引がしたくて、砥部に乗り込んでいきました。1975年頃のことですね。
その頃の梅野は従業員が110名を超えていて、工藤さんはそのうちの一人で、だから唐草は会社のものだったんですね。実際に唐草が生まれたのは、1972年とのことでした。ただ、唐草が会社のものとはいえ、描けるのは工藤さんだけで、他の絵付け師に描かせるのはもう少し待ってくれ、と言っていました。ここから付き合いが始まり、松屋にも少しずつ納品されるようになっていきました。当時は、砥部焼イコール梅野と言っていいほどの存在感でした。
1985年、第1回砥部焼展の開催
こうして取引が始まり、1985年1月、第1回砥部焼展の開催へと至りました。初日の様子は今でもありありと覚えているそうです。物流の発達が今ほどではないなか、四国から海を渡って、多くの砥部焼が展示、販売されたことは大きなインパクトがありました。
(佐藤)
売上予算は500万円だったんですが、2日目でクリアしました。最終的には1246万円を売り上げました。あまりにもすごいので覚えているんです。「梅野精陶所はありますか?」「誰々さんは来ていますか?」というお客様の声も覚えています。旅行に行って、工房を訪ねていた人も多かったんだよね。あと、DMの宣伝効果も大きかったですね。
そのDMのディレクションを手がけたのが、山田節子さんです。“生活が育てた器たち”というテーマは、第40回を迎える今も変わりません。
(山田)
“生活が育てた”っていう言葉がとても大切で、商売だけのためにものが生まれてきているんじゃなくて、生活をしていく人たちが豊かな思いで使っていけるものを百貨店としては売っていかなければ意味がないのではないか、というメッセージを込めました。DMのデザインについては、宣伝課にいらした水野皓司さんっていう優秀なデザイナーが手がけてくれました。
“生活が育てた器たち”を思うとき、山田さんの頭に一番に浮かんだのが、工藤省治の存在でした。
(山田)
工藤省治は青森県の生まれで、ほんとうは絵描きになりたくて。でも、絵描きとして生きていくのは大変な時代で、梅野精陶所にやってきました。
生活の器をつくっていくべきという強い信念を持たれていて、砥部の土のあたたかさ、呉須の美しさ、そういうものを現代の生活に似合うように、アレンジではなく、あらためて現代の器として見事な提案をしてくださったんですね。使いやすくて、厚手で、ぽってりとして、和洋で使えるようになっていました。奥様も料理なんかでは協力されていましたし、まさに生活のなかからつくりあげていったものでした。
そして、2025年でいよいよ第40回を迎えるわけですが、一つの産地の企画展を40回も続けている百貨店は他にはありません。
(山田)
松屋は他の百貨店と違って、ただ売れればいいというよりも、デザインコレクション(1955年、日本デザインコミッティーと松屋が立ち上げたセレクトショップの草分け的存在)や、クラフトの展覧会を続けるなど、一度取り組みを始めたら継続する姿勢を持っています。銀座の真ん中で、日本の生活文化を伝え続けている貴重な百貨店なんです。
砥部焼の変遷について
工藤省治が考案した唐草は、今では砥部焼を代表する模様になりました。約250年の砥部焼の歴史のなかで、工藤省治は一つの様式を生み出したともいえます。
(佐藤)
工藤さんは梅野精陶所の従業員だから、当然、唐草は梅野の絵になるんだけど、他の窯元も真似したというか、勝手に描いちゃった。そういうところは許されていたんじゃないかな。それは、梅野の4代目の梅野武之助の寛容さが大きいわけだけど。梅野精陶所が小窯(砥部焼における梅野精陶所以外の窯元の総称)を育てたイメージですね。
(山田)
でも、最近の唐草を見ると、工藤さんが描いたものと比べると弱くなっていますね。
多くの模様は、絵付け師が描きやすいように、「つけたて」という技法で描かれていますが、唐草は異なるとのことです。
(佐藤)
唐草は、工藤さんにしか描けないから、他の絵付け師が描けるようになるまでしばらく待ってほしい、と言われました。
(山田)
しょうちゃん。私たちは、こう呼んでいたんですけど、しょうちゃんの場合は、筆を下ろして伸ばす、下ろして止める、っていうのがとても力がありました。やっぱり他の人とは違う。しょうちゃんの唐草を持っている人は宝物にしたほうがいいですよ。
約半世紀に渡り、砥部焼の大きな柱として活動した工藤省治は、2019年、85歳で亡くなりました。これからの砥部焼は、どのようになっていくのでしょうか。有田で焼きものの基礎を学び、砥部で修行、開窯に至った理事長の目に、現状の砥部焼はどのように映っているのでしょうか。
(松田)
僕は有田には1年しかいなかったんですけど、有田は個人主義で、技術を見せない、盗ませないという雰囲気があります。砥部に帰ってきたら、気軽に工房に行けるし、やり方まで教えてくれる。町が主催している陶画教室の講師が工藤さんだったんですけど、唐草の描き方を教えてくれました。工藤さんが教えてくれるから、みんな描けるようになって……。そういう流れから、唐草が砥部焼の共通のイメージになったのかな、と僕は思う。
作り手として思うことは、手仕事というのは他の産地より確実に残っています。磁器の産地は、ろくろはろくろ師、絵付けは絵付け師というふうに分業制のところが多いのですが、砥部は梅山窯をのぞけば、小規模な、家内制手工業のような窯元ばかりなので、ろくろから絵付けまでトータルでできてしまう。さらに、機械などの設備投資ができないから、大手のメーカーのOEMのような仕事はこない。そうした理由から手仕事が残った。この手づくり、手描きというのは、これからも残っていくと思うし、守っていかなければならないと思います。
ライフスタイルに合わせてつくるものは変えるけど、つくり方は変えない
砥部焼展が始まってから40年。豆皿、手塩皿、小皿、中皿、大皿、小付、小鉢、中鉢、大鉢、どんぶり鉢、片口鉢、酒器、湯呑、マグ、フリーカップ、食卓小物など、さまざまな生活の器が展示会場に並びました。当初は梅山窯が中心でしたが、次第に窯元の多様性に注目が集まるようにもなりました。
(山田)
食のライフスタイルの変化に合わせて、現代の暮らしに適うものをピックアップしてきました。つくるものも少しずつ変わっているんだけど、こうやってDMを並べて見返すと、そんなには変わらない。日本の日常生活にぴったりのぬくもりのある器をつくり続けています。
他の陶磁器の産地に比べて、砥部焼の特徴がわかりやすいのは、工藤省治や梅野精陶所がつくりあげてきたイメージを共有し、砥部の土を使い、手づくり、手描きの精神が受け継がれているからなのでしょう。
砥部焼の未来への提言
最後に、各々にこれからの砥部焼への提言をいただきました。
(松田)
これまでは梅山窯という看板があり、梅山窯から多くの職人が巣立ちましたが、これからは「砥部焼」が看板になると思います。指導的な立場がいなくなると、自由気ままにものをつくる人も出てくるでしょう。近頃は、“新しい砥部焼”と称して、唐草や呉須などの伝統的な色柄ではなく、カラフルなかわいい砥部焼をつくる窯元もあります。消費者としては、梅山窯の唐草が砥部焼という印象を持つ方も多いだろうけど、組合として作り手に制限をかけるわけにもいかない。それらは時代を通り過ぎないと評価されないわけで、淘汰されずに残ったものは、新しい様式美となっていくでしょう。ただ一つだけ、手仕事であればいいかな、と。将来、手づくりの部分はもしかしたら難しいかもしれないけど、手描きだけは産地として守らないといけない、というふうに僕は思っています。
(佐藤)
僕が砥部に行き始めた頃は、のちに東京藝術大学の学長になる陶芸家の藤本能道らが来ていました。今はもう指導者を求める時代ではないのかな、と思っています。人気のある中田窯の中田正隆さんとか、それこそ、松田啓司くんも東京で知られている。そういう影響力のある、リーダー的な存在が求められているんじゃないかな。
(山田)
私たちが期待しているのは、新たな芽が出てくること。それでいて、伝統的であるか、砥部の土を生かした砥部らしいものであるか。そういうものが続いていってほしい。文様にしても、呉須の色にしても、いろんな方が描いても、「やっぱり砥部らしいね」って言われるようなものがつながってくれたら、と思いますね。
過去のDMで振り返る
松屋銀座での砥部焼展40年
1985年から始まった銀座松屋での砥部焼展。
「生活が育てた器たち」というテーマのもと、つむいだ40年を毎年創り続けたDMと共に振り返ります。
©株式会社シービーケー
カメラマン:加藤 彰、与儀 達二、下山 一人、佐々木 寿治