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年 代 |
事 項 |
6〜7世紀 |
このころ砥部で須恵器の生産が行われる。 |
747 |
『正倉院文書』に「伊予砥」が税として課徴されたことが記載。 |
927 |
『延喜式』に「伊予砥」が税として課徴されたことが記載。 |
1775 |
大洲藩主・加藤泰候が砥石のくずを使った磁器創業を加藤三郎兵衛光敏に命じる。 杉野丈助、五本松に登窯を築く(上原窯)。 上原窯にて第1回磁器焼成するが失敗。そのため肥前から呼び寄せた5人の陶工は帰国。 |
1776 |
第2回焼成失敗。 筑前・上須恵窯から砥部に移住していた信吉が、焼成失敗の原因は釉薬の不良であることを杉野丈助に告げる。 |
1777 |
杉野丈助が筑前に行き、権助から釉石と釉薬を購入。 杉野丈助、新釉薬を使い磁器焼成に成功。(砥部焼のはじまり) 杉野丈助、三秋(現伊予市)で釉薬の原料石を発見。釉薬の自給が可能となる。 大洲藩が経営していた上原窯を門田金治が譲り受ける。 |
1818 |
向井源治、川登陶石を発見。 |
1825 |
亀屋庫蔵が大洲藩の命により、肥前から錦手磁器を伝習。 |
1839 |
栄蔵、類助らが絵薬を求めて長崎にゆく。 |
1848 |
井岡太蔵、トンバリ(レンガ)を使った窯を作る。 |
1851 |
城戸源六、素焼窯を考案。 川登の坪内庄太郎が大洲藩の認可を得て、太鼓水車を使った陶石の粉砕業を始める。 |
1853 |
坪内家の水車帳に17の窯元を記載。 |
1857 |
瀬戸物役所、唐津役所できる。 このころ、全国に磁器窯が作られ、磁器が庶民生活の中に広まる。 |
1878 |
伊藤五松斎、九州から陶工を招き型絵染付を広める。 伊達幸太郎、京都で西洋彩画を学ぶ。 |
1885 |
砥部焼、清国(今の中国)に輸出。 |
1888 |
「下浮穴・伊予両郡陶磁器同業組合」(現砥部焼協同組合の前身)を設立。 |
1890 |
向井和平、淡黄磁を創始。 |
1893 |
淡黄磁、シカゴ世界博で一等賞を受賞。 |
1903 |
重要物産同業組合法が公布され、輸出に力を入れる為、「下浮穴・伊予両郡陶磁器同業組合」を「伊予陶磁器同業組合」に改組。 |
1906 |
陶器補習学校できる。 |
1930 |
「砥部焼陶友会」発足。 |
1934 |
工業組合法の施工によって「伊予陶磁器同業組合」を「伊予陶磁器工業組合に」に改組、組合の地域を県全域に広め事業強化を行った。 |
1942 |
杉野丈助の功績をたたえて陶祖ヶ丘に記念碑を建立。 |
1944 |
商工組合の規定に従って、「伊予陶磁器工業組合」を「伊予陶磁器工業統制組合」に移行。 |
1947 |
商工協同組合法の公布に従って「伊予陶磁器工業統制組合」を「伊予陶磁器工業協同組合」に改組。 |
1949 |
中小企業協同組合法によって「伊予陶磁器工業協同組合」を「伊予陶磁器協同組合」に改組。 |
1953 |
柳宗悦、バーナード・リーチ、浜田庄司など、指導のため砥部を訪れる。 |
1956 |
陶芸家・富本憲吉、陶芸指導のため砥部を訪れる。 |
1959 |
「砥部焼陶友会」が解散。「砥部焼陶和会」設立。 |
1976 |
砥部焼、国の伝統的工芸品に指定される。 |
1977 |
砥部磁器業200年祭を行う。 |
1984 |
『砥部焼まつり』はじまる。 |
1989 |
砥部焼伝統産業会館できる。 |
1995 |
砥部焼の地球儀が国連欧州本部に設置される。 |
2003 |
将来にわたり砥部焼業界を束ねていく為、「伊予陶磁器協同組合」を「砥部焼協同組合」に改名。 |